line-01
line_glay
  
更新日付:2017年 09月 10日(Sun) 11:20:59 AM home/top page server library/page  yami-top/page  闇黒光演劇論集top  闇黒光top
top
line_glay

闇黒光演劇論集 2006年代

    1. あとがきと解題(2006.06.21)
    2. 「未知座小劇場を解体する」を解体する(2006.06.21)
    3. 演技について・2006 『言語としての演技』

あとがきと解題 (2006.02.06)


      【 編集注記 】この文は『大阪物語 revision-2 』上演台本に記載されたものである。

未知座小劇場が揚言した「大日本演劇大系」は数章ほどある。だが、なぜ第五章・『大阪物語 revision-2 』と番外・『独戯』と序の章・『明月記』の三本を連続上演しなければならないのか? と問うことから始めよう。
前回の『大阪物語』の公演で「大日本演劇大系」は一つの区切りエポックを迎えたようなのである。自身でエポックなどというと面映いが、大そうなことではなく、このあたりのことを少しだけ「あとがき」をかりて書いておきたい。
バッファ・オーバーフローという言葉がある。車などでオーバーフローといえば、水やオイルなどがパーツからあふれることをいう。プログラミング言語の概念では「プログラムが確保したメモリサイズを越えて文字列が入力されると領域があふれて(オーバーフロー)しまい、予期しない動作が起きる」ことをいうのだが、総じて正常でない、あるいは計算どうりにいかなかった状態を意味する。ここでは「思惑が外れた、そんなことになるはずはないが、そうなるか?」ということになる。この場では、少しだけ良い意味に使いたいのだが、それでもバッファ・オーバーフローが現象すれば、それはやはり不良品であったり、バグ(bug)であるので、システムの命取りになる。何らかの善後策、デバッグ (debug)が必要となる。
多分、計算どおりにオーバーフローになることはない。しかし、あらかじめ完成されたシステムなどないのであるから、バグというオーバーフローが発見されて、修正されシステムは強固になっていく。プログラムが枯れるまで、バグとプログラムは付き合っていくことになる。面白いことに、バグが発見されないようになると、そのプログラムは枯れたと言われる。同時に枯れるとは、新たなる要求にそのプログラムがこたえきれないということになる場合が多い。少々強引にまとめれば、大規模なシステムであればあるほど、それが万全に運用されるためのプログラムは、完全無欠であらなければならない。しかし、残念ながら人手が絡む以上、完全無欠のプログラムなどないのであるから、完成に向かって隣接するだけである。バグは駆逐されることが前提であるにもかかわらず、バグがなくなったとき、そのプログラムは持命を終える。イメージを極論すれば、完成とは自死へ至る行為となるのである。では、破綻と未成熟と未完成が目指されるべきなのか? きっとそうではあるまい。
力場ちからばを転位させなければならない。力場とは何かと問われると、それはわたしの演劇的な造語であるから、少々厄介になるがそれは、演劇的磁場をうごめく身体の棲家のことである。煙に巻くようになることを恐れるので、とりあえず、舞台のことである、と言い放っておくことにしたい。
磁場をどのように転位させるのか?この仮設によって、大日本演劇大系連続三本立て興業は捻出された。例えば、「独戯」は出演者は一人である。「明月記」は出演者は二人であるが、相手を自身と思っている二人が居る。つまりは二人という一人なのである。「大阪物語」は出演者は二人であった。これらの結果、関係という構造を求めざるをえなかったようである。構造とは相対的な関係性のことではない。場というシステムとしての全体である。ここでの構造は記号を孕む。さて、やはり「迎えたようなのである」という予期せぬ事態こそ、前述の「オーバーフロ」に似る。
このようにして、未知座小劇場は力場を転位させるために、大日本演劇大系連続三本立て興業を行為することとなった。
最後に、今年の二月段階で、このテント公演の企画意図を説明したメモ書きを転載して、この「あとがき」を終えよう。

●所謂『大日本演劇大系』について少々・草稿 ― 企画書にかえて ―●

この冊子の上演台本三本は、明確な意図によって書き継がれ、連作されたものではない。それぞれの状況のなかで上梓したものである。執筆時期も異なる。わたしの記憶が正しければ、各々の初演は、多分『明月記』が一九八五年以降だったし、つづいて『独戯』は1990年前後の筈だ。『大阪物語』は昨年である。不確かな部分は上演記録を参照いただくしかない。
『明月記』は、大阪・枚方市で行われたイベントから招請をうけて実現した。本番まで一月あまりしかなく、あわただしく初日を迎えた、と思う。『独戯』は、外部から執筆と演出の依頼があって公演までこぎつけた。多分客の入りが悪かったのだろう、原稿料等を辞退したわけではないが、うやむやの中でもらえなかったのであった。現在も受け取っていない。このように記憶の底を掘り起こしながら綴りはじめると、少しずつ何かが頭を擡げてきそうだが、それらのことどもは別の機会に譲ろう。
『明月記』と『独戯』はこれまで数回の再演を行ってきた。これにくらべ、未知座小劇場で上演した、他の舞台の再演は、その多くがテント公演のものであったせいもあるが、再演はない。再演よりも新作をというのが当時の流れであった。端的にいえば、テント公演の場合、その全体の作業量が新作であろうと旧作であろうとなんらかわりがない、ということがあった。さらにそこに、未知座小劇場のテント公演は、一ヵ所でなく数ヵ所でやるという、移行の概念がついて回っていたので、その全体性から強いられる莫大な時間量の中では、吐き捨てたものより、新たなる可能性を求めて、やはり新作を抱えたい、というのがあったのである。再演のイメージを想起することすらありえなかった、というのが実情であった。
『明月記』と『独戯』は小屋を想定した台本であったために、その再演の可能性がよりあったということもあるが、事情は少々違う。再演は意図的であった。やはり「大日本演劇大系」という冠である。「大日本演劇大系」というものを想起したのは『明月記』の作業と重なる。
ふり返ってみると、この時期は、テント公演の現状と可能性が捉え返されようとし、新たなる可能性が模索されていた。詳細は『未知座小劇場からの報告』の「書かなければならなかった事」に譲るが、要は、未知座小劇場の新たなる展開がさらなるイメージで切り開けなかったのである。言葉をかえれば、テント公演がスケジュール化し、そのことに力量が傾注される。持続しこなされることが問題となる。わたしの言葉では「物語としてのテント」となる。状況的には構造主義からポスト構造主義のながれと重なる。これらのことがあいまって、舞台は「メタ演劇」の様相を呈した。それは意図されたことだが、劇中の台詞としては「もう返るべきロマンはない」となった。
演技論的に綴れば、行為することのリアリティ、作業することの納得さ加減をどのように集団化しうるのかということであった。何が目指されており、どのように行為されねばならないのかということを語る言葉が獲得されねばならなかった。それが一つのドクサ(イデオロギー)であってもいいのだが、真摯な行為に耐えうるドクサでなければならなかったのである。
これらの問題をとらえ返すために、現状の再検証が目指された。具体的な作業として、演劇といわれるものを解体して、一から組み立ててみようというわけである。もちろん演劇そのものを疑うためにである。抽象的な作業ではなく、最もリアリティのない物語を行くてに仮設してみる。このようにして、関係、身体、言語等の検証が「大日本演劇大系」のそれぞれの、一つの章として企まれた。
その途上である現在、テント公演となった。この作業を「大日本演劇大系」を絡めて語るには別稿がいる。ただ、この地点で言えることは、この冊子の上演台本三本で、これまでの作業をあらかた全体として指し示すことができるということである。
この意味で冊子の三本であり、「大日本演劇大系」三本立て興業である。(06.02.07 記)


[ 解題1・大阪物語 revision-2 ]

『大阪物語』の公演は二〇〇五年十一、十二月に、大阪府八尾の未知座小劇場で行われた。未知座小劇場の公演としては、数年ぶりとなった。また同小屋での興業は十数年ぶりであった。
『大阪物語』の公演企画書は二〇〇四年十一月、打上花火と曼珠沙華から提出され、同年十二月に採決されたが、提出された企画書に『大阪物語』後の公演を「テント公演を射程することでの今回の『大阪物語』公演」という企画意図が盛り込まれた。ここには、『大阪物語』は単発でする公演ではなく、持続する意志を展開するという思いが反映されたことによるが、十数年のインターバルの内容がそのように『大阪物語』を規定したといっていい。換言すれば、十数年のインターバルが明らかに演劇営為によって支えられてきたことを物語っている。
このようにして今回の『大阪物語 revision-2 』は出発してあった。そうしてのテント公演である。この解題の場でテント公演について語る言葉を多く持たないが、端的に言ってしまえば、すべてが論理化されてテント公演が行為されるのではない、ということである。この他のことどもは後述の『未知座小劇場からの報告』に譲るが、この解題を綴っている段階でもうまく報告できるかどうか心もとないというのが、現状である。
さて、今回の『大阪物語 revision-2 』の出演者はオーディションによって決定した。前回の『大阪物語』では、オーディションによる出演者ということを前提に台本を用意し、舞台を用意する勇気は、残念であるが持ち得なかった。だからという結果だけではないが、出演者を二人にして『大阪物語』を用意した。今回はオーディションによって出演者を決定し、舞台を目指した。オーディションというシステムに対して諸論があるであろうが、ここへの行為は、常に二人だけの出演者で舞台を目指すということは、なかなかあり得ないだろうということである。ひとえに未知座小劇場は未知座小劇場だけではあり得ない、と言い切っても仕方がないが、未知座小劇場の方法であるかどうかは、今後の展開が、それを確定していくことになるだろうと、ひとまず言っておくことにしたい。(06.06.21 記)


[ 解題2・独戯 ]

今回の独戯は、劇団どくんごの時折旬氏を御名指しての上演である。
『大日本演劇大系 番外・独戯』の初演は一九八八年である。その後、二、三回の上演がある。未知座小劇場以外の上演はあったやに聞き及んでいるが、手元に資料がない。
この『番外・独戯』を改作と、この冊子に収めるにあたって改めて読み返してみた。こんな機会がないとなかなかできない作業で、記憶の遥か彼方にあったものが、突然突きつけられたりもした。肩のはり具合といったらいいのか、大言壮語といったらいいのか、そんなものが特に目に付く。だが、これはこれである。また、表現が稚拙であったとしても、打ち消すわけにはいかない。ここから出発したのは、間違いないのであるから……
思いや、イデオロギー的な面を修正せざるを得ないところはあるが、決意という事でいえば、そんな具合であったのだろう。つまり、そうずれてはいない。
ここが解題ということで、資料を転載することにした。黙殺するという習慣がわたしにあれば、それはそれでうれしかったのであるが。
「『明月記』と『番外・独戯』について」は大阪・八尾のシルキーホール上演台本に寄せた文である。『明月記』と『番外・独戯』を「喰いあわせ公演・大日本演劇大系」と銘打っておこなった。
「物語論あら書き 」は『番外・独戯』初演の際の、台本あとがきに寄せたものである、と日付から推察している。(06.02.05 記)
●「明月記・独戯─喰いあわせ公演・大日本演劇大系」版後記●
    
『「明月記」と「番外・独戯」について』
大日本演劇大系は、以降第一章・二章と続いていていくものです。そのプランはいってしまえば「演劇が演劇的に死滅する瞬間」まで摸索してみようとするものです。
これは「自然が自然的に消滅」することがないように、また「演劇が演劇的に死滅する瞬間」もないと考えます。しかし「演劇が演劇的に死滅する瞬間」をかりに「観客が観客に向き会う瞬間」という極めて共産主義的な瞬間を幻視することで、演劇の本質を明らかにしてみようという試みです。
「自同律の不快」があるのであれば、自同律の愉快もまたあるのであろうと考えてみるわけです。きっと「わたしは」とつぶやき「わたしである」と述語する時間は、人間に莫大な想像力と、宇宙史に匹敵する時間を押し付けるのですから、もちろんそのとき、人間のことを人間と呼ぶのかどうかは定かではありませんが、この大日本演劇大系の第一章・二章……終章は十年ないし二十年の幅で摸索せざるを得ないであろうことは、十分に予測しているものです。
さて『序の章』は、最低のところから始めよう。これ以上退けば演劇でなくなるところから始めよう、としたものでした。
かのピーター・ブルックは、一人の人と、それを観るものがいればそれは演劇であるとしたのですが、残念ながら、これは明らかなまちがいです。二人の人と、それを観るものがいれば、それは演劇である。この視点が、大日本演劇大系の出発です。
演技論の違いといって済まされない問題が孕まれているのですが、とりあえずここでは、関係のせり上がる瞬間に、演劇は成立し、演技は行使されたのであると、それは芝居の現場であったのだ、としたいわけです。
多くを語らずさきにいきます。
一人演劇は、百歩譲ってあるとしていい。だが、一人芝居はない。これは、言葉の問題ではない。
一人演劇でもなく一人芝居でもないものとして独戯を設定しました。したがって『独戯』は『明月記』の反措定です。
相互が存在を問うものとしてあります。この摸索をとおして第一章が発見されるものと考えます。
以上が、大日本演劇大系の三年間といえます。
八尾公演でなんらかの結論がでるものと期待しているところです。
さて、この大日本演劇大系と、テントの関係は大日本演劇大系の大きな課題です。今後大日本演劇大系のなかで展開していければさいわいです。(文責・河野明 1990.09 記)
●初版後記●
    『 物語論あら書き』
この『大日本演劇大系・番外』は前作『大日本演劇大系 序の章・明月記』との関係において語るしかない、というところにわたしはある。
『番外』との関係で『明月記』を概略すれば、それは一人の女を二人の女優が舞台で力場するということであった。演技の本質を関係性の問題以外にはないとして展開したのであった。演技という交通の可能性を関係論として閉じ込めてよしとしたのである。極論すれば、人のまえで何かを見せつける地平において、演技の成立は関係としてしか登場しないのである。
一人で何事かを、見せつけることにおいては、演技はついに登場しないであろう。つまり観客は、ついに第三者であることをやめてはいない。
なぜか。物語が死滅しているからにほかならない。生活から物語は駆逐されていると言い換えてもいい。
この場の脈絡で綴れば、関係の可能性の展開は幾分かは物語への距離感の確定ということもできる。
さて、物語りは常に、時の権力の用いる支配構造という権力関係をその中心ファクターとしてきたが、現代という様式においては、物語はロマンという様相を帯ないほどに物化しているといっていい。つまり、支配構造という権力関係が、かつての支配構造という権力関係の全体性を脱皮し、新たなる支配構造という権力関係を捏造することによって高次化した距離、その距離は逆説でもなく、関係をなしくずしにする無関係化という支配構造という権力関係の定着さほどに物語は物化しているのであろう。敵が見えないなどということではない。敵などどうでもいいのである。そのようにして錯乱を装っているのである。前後するが、この物化のほどに観客は第三者を装うのである。
物語は今、自分探し、イメージ、構造、天皇制、奪われた時間、近未来とその姿を換えてきたものの、瀕死の宙ぶらりんなのである。
幾多うまれてきた物語は、より多くその歴史を紐とけば、民衆が求めてきたといってもいい。物語を活性化してきたのは民衆の力であった。その力が、人前でなにかをやってみせるという行為を、第三者としてではなく支えてきた。このエネルキーが結実しようとする場が、芝居であった。
このあたりの展開は「十五・物語論」に置換するとして、さて登場人物は一人なのである。
ひとの前で何かをしてみせる必要十分条件を二人の俳優関係としたとき、この文の脈絡を踏まえて綴れば、それはすべてを相対化する物語の捏造であった。物語を生きて見せようということであった。二人の俳優の『明月記』にそっていえば、関係を生きてみせようということであった。
さて、登場人物は一人なのである。多言を要しまい。そこにうごめくのは物語なのである。瀕死の、宙ぶらりんの……。あえていえば、この『独戯』は物語論として成立させようとした。老婆心ながら、瀕死の、宙ぶらりんの物語は、支配構造という権力関係を補完する上部構造としてのロマンという物語を、観客が拒否し、正しく物語の死に水をとろうとした結果であるとは位置付けてはいない。単純に綴れば、もろ刃の剣としてある物語が片刃になり、他の刃も、刃である必要がなくなったなにがなにかわからへん、といえばいいのだろうか。飛躍する気はまったくないが、それは天皇制の今日的状況と添い寝してきたのであった。
ついに『独戯』ではこのような物語がのたうつのであるが、さて、役者たらんとする身体はいかに蘇生し、自己権力としての身体たるかは、やはり演技にかかわっているのである。
やはり最後に「すべてを演技諭で突破せよ!」と。(1988.03 記)


[ 解題3・明月記 ]

『明月記』について銘記することはあまりない。
初演は1987年三月である。機会を得るごとに各地で上演を行ってきた。この航程の途上で『明月記』の最終公演はテントで打ち上げる、とイメージするようになっていった。『明月記』で仮設した作業が、果てしなく、終わりなき道標を模索するようなものであったがゆえ、そのように思い切る必要があったのかもしれない。
ついに『明月記』は最終公演を迎える。
さてさて、そのようになるかどうか、テント公演を前にしての予断は闇の中である。


未知座小劇場からの報告・2006『力場の論理 ―演技について・序章』(2006.02.06)


      【 編集注記 】この文は『大阪物語 revision-2 』の上演台本に記載されたものである。

「未知座小劇場を解体する」を解体する

『未知座小劇場からの報告』と題して、十年前に書き始めたこの拙文の想いは、思いの丈を遥かに凌駕して霧散し、以降、幾度頓挫したことであろうか。頭を擡げてそして消えて行ったその幾多の想念は、もうすでに数え上げることなどはできはしない。
今あらためて、ここで筆を起こすことが可能であるとは、露程も思わないが、せめて露分け衣の一枚は剥がしたいと思う。
想いは、全体を構想し、それをそのように提出したいのだ、としてあり、やはりそれは捨てがたくある。全体は想念として構想しうるが、現場という一つの具体性が、その全体を常に喰い破る。具体性とはここでは力であることを止めず、全体の構想を遠ざけずにはおかなかった。きっと、現場性とはそのようにしてあるのであろう。現場性とは常に発案や身体の正当化の連続であるのだから。
この連続の一時点を切り取ることは可能であろうか?
やはり、やはりきっと、可能ではないのだ。ある切り取りによって、全体の構想は変容する。だからそこでは、一つの積み重ねと、もう一つの積み重ねによって、その非連続の連続によって、全体としての想念に漸進するしかないのもまた、あらためて言うまでもないであろう。ついに全体としての想念という構想は、虚構であるのだが、この全体というパラダイムの限界が白日の下に晒されるのは、一つの積み重ねと、もう一つの積み重ねによる推敲の論理性を楯にとるしか術が無いのも、これまた同時に、あらためて言うまでもないであろう。
さて、この拙文の初めで、想念という構想が陳べられる。あるいはまた、仮にわたしが『力場の論理』という一文をものにするとするなら、ここは序章ということになるだろう。
なににこだわり、なにを陳べるのか。それはそもそもはたして、語るに足る価値があるのか、どのような方法を取るのか、ということになるのだが、それはまたしても『未知座小劇場からの報告』が、ここでは完結しないことを意味する。であるが、それは遅々としてある重い歩一歩を進める一つの作業仮説ではあるといえる。また、未知座小劇場が今抱える「テント公演」を前にして、黙して座すかのような体たらくは、人後に落ちるであろう。まあ、実はそのようなことはどうでも良く、現場は明らかに動き始めた、ということこそが射程されてある。

わたしにはここ十年、次のような脅迫観念がある。
未知座小劇場が集団を標榜することを停め、その集団性を解体することを確認したのが、1996年5〜6月にかけて行った第36回テント公演『レスピレーター』に重なるからやはり十年来のものとなる。
未知座小劇場の集団性を解体することが、同時に未知座小劇場そのものの論理的解消を論証し、それを受け入れざるを得ないということではなかったのであるから、まあそれはどうということはないのであるが、そのことによってわたしの舞台へのこだわりが頓挫したわけでないのであるから、事実、わたしはわたしとして未知座小劇場を持続することを諦めていないのであるから、まっとうなとこでは何も変わったのではないのであった。であるが、この事態を論理化し、文章化することがわたしの責務であり、そのような位置、あるいは立場であったと、自身では思い込んでいる。現時点でもそのように位置付けていることに変わりはない。説明責任は以来、わたしの側にあり続けているのであった。
未知座小劇場の集団性を解体することとは、まず、既存の方法で舞台やテント公演を行為しないことであるのだから、現象的には「集団性を解体する」は、未知座小劇場の解体として、演劇状況には出現する。これは甘受すればなるようになるというしかない。しかし、われわれという未知座小劇場は、その思い込みだけによって展開できたわけではないのであるから、その舞台は多くの具体的な、有無名性に関わらず、幾多の方々の無私の物心両面によるエネルギーの傾注をいただくことによって可能となったのであるから、論理化という言語化作業をへて、事態の報告を提出し公開することを、礼を失しないための、わたしが自身に課す責務であろう、としてきたのであった。この意味で、十年来わたしは礼を失している、ということになるのは間違いないのである。
ことが、状況にかまけただけならば何とでもなる。また、集団を標榜することを停め、その止めたことの展望を、以降の演劇営為が更なる展開であるとしてまず自身が指し示すことができているのであれば、あるいはその道程が方法として可能であると位置づけることができていたならば、現場性のみが可能性を開示できると位置づけることができていたならば、なんともいえぬこの脅迫観念はないのであった。
だからやはり、現時点で明確に言えることは、論理化という言語化作業の頓挫という、わたしのその力量のなさこそが「未知座小劇場が集団を標榜することを停め」ざるを得なかった大元なのだということは、わたしがわたし自身に言わざるを得ないのであった。ここが出発であり、これを本質として見据えることで、論理展開を可能とした。
すでに出発から、この事態を社会科学的なもう一つの政治性を持ち出し、概括を試みることは不能であると実感していた。それは、いやその道程こそ、もう一つの「未知座小劇場が集団を標榜することを停め」たに辿り着くであろう。経緯はそのようなものとしてあった。

書き始めると、いいように筆が滑り始める。道程を整理しておくことにしよう。
ここでいう「未知座小劇場が集団を標榜することを停め」とは集団の枯渇ではなく集団論の枯渇のことである。
かりに一つの物言いとして「集団は時間とともに腐敗する」というテーゼがあったとして、これは組織という物理性には的を射るであろうが、集団とはわたしのことであるとするとき、この物言いは何ものも分析していないことがわかる。つまり、わたしは腐敗したといって、自身を打っ遣ることのできる行為などどこにもない、というだけで十分であろう。この視点で十分であった、というべきだろう。つまり、これを主体性論としたとき、この集団論は枯渇する。事態は、この集団論を言語論として射程することが、やがて要請されることになったのであった。
さてここでわたしが言う集団論の出自は、党派性などという組織(=戦後民主主義)に対する相対的価値として仮設されたはずである。それがこの集団論の歴史性である。行為することのまじめにいい加減であることの価値、それでもなお、自身が引き受けざるを得ない背反性には居直るのではなくまともに向き合おうとする倫理性、それを基準にすることによって初めて対話や、他者への意思が成立するとする決意性、これらを象徴として内含する集団論は、相対する組織論が、より現代的に合理化されることによって、市民化されることによって瓦解した。これらが総じてポスト構造主義へなだれをうったというのは容易い。わたしはこれを称して相対的客観主義というが、そこではなにも問題は解決されないのであった。
問題は、どのように言語化するか、として収束した。この作業は頓挫している。しかし、自身の状況は推移する。推移する中で頓挫するとは、現場性の中で行為として思考せざるを得ないということであった。この作業は同時に、位置付けるための言語を獲得するという作業が課せられる。複雑に入り組むが、それは言語を持たないということである。言語を持たないとは思考が不能であるということであり、方向性を確定できないことになる。
このことがまったきを得て懐疑ないならばそれは破綻である。だが、ことは「未知座小劇場の集団性を解体する」とはを、どのように読むかということであった。このアプローチ手順が言語化を導くということであった。それは、たとえばここでいう「もう一つの政治性」とは「行為することのまじめにいい加減であることの価値、それでもなお、自身が引き受けざるを得ない背反性には居直るのではなくまともに向き合おうとする倫理性、それを基準にすることによって初めて対話や、他者への意思が成立するとする決意性、これらを象徴として内含する集団論」の残骸としてあった別名であり、だから恥ずかしげもなく脈絡上明確に言ってしまわざるを得ないが、その全共闘運動論もまた「もう一つの政治性」であったのだとしたとき、失語にいたらざる得なかったということであった。つまり、あらかじめ読むすべを封印して出発したのであった。
いま少し、この事態に至った経緯を、その前史を綴っておきたい。それは、少しばかりのわたくし事を綴った引用になるが、黙許いただきたい。
この「書かなければならなかったこと」はきわめて個的なことになることを、あらかじめお断りしておきたい。そのようなものとして「書かなければならなかったこと」はある。いやむしろ、この「書かなければならなかったこと」を具体化するために、多くのことはあったといえるほどである。
状況の中で、作為された行為が、生活のなかからの必然的なものであるかのように自身を標榜して、思考よりまず展開こそが求められるということは多々ある。それはまずそこに行為があるあことを、指し示そうとするからであるが、かといって、結果で何かが和解し、氷解するということはそんなにあるわけではない。むしろ、迷路こそ用意されている、というのが常だろう。いつも立ち止って考えるわけにもいかないからでなく、見えないのだ。このとき、なされることは「見えない」ことにこだわることしかできはしない。付け焼刃に借り物の思想性を孫引きしたところで、すぐにその鍍金ははげるのだ。だから、静かに自身の中に垂らした推力に合わせて、果て度ない井戸を掘るのがいい。井の中の蛙と手を繋ぐならまずは繋いでみることだ。やがてその蛙を、はるか下から見上げなければならないのであるから、まずはそれを楽しんでみることだ。孤独と寂寞のなかで、ゆるやかなリズムを刻むのである。
三島由紀夫の自決、高橋和巳の自死、妙義山にいたる惨死から、これらの三方のベクトルからする、すくんでしまった地点に、無名の死を仮想し、そこから自身の中に垂らした推力に合わせてした、果て度ない下降の井戸のなかにまだいるが、たまにそんな一点から頭上を見上げたとしても、やはり満天の星空は見えるのである。それは一重に孤立することを意味する作業であったといえる。
この拙文はそんな地点からする、まずはの経過報告である。
この『書かなければならなかったこと』は「霧散し、幾度なく頓挫した」ものの一つであり、そのメモから転載である。ここでは「未知座小劇場が集団を標榜することを停め」たのは、どこから出発したのかを確定しようとしている。ここでいう「三島由紀夫の自決、高橋和巳の自死、妙義山にいたる惨死」とは、未知座小劇場が結成された1972年のこととなる。ここからの「果て度ない井戸を掘る」営為は、まず政治的言語の唾棄、それは政治からの遁走として表象された。この表象をマニフェスト化すれば、それ以来、未知座小劇場が掲げる「演技論ですべてを突破せよ!」となるのであった。こで獲得されるべき演技論は、既存の物語論への批評性によって方法化されるとした。だが、ここでの集団論という運動論は、繰り返すことになるが「行為することのまじめにいい加減であることの価値、それでもなお、自身が引き受けざるを得ない背反性には居直るのではなくまともに向き合おうとする倫理性、それを基準にすることによって初めて対話や、他者への意思が成立するとする決意性、これらを象徴として内含する集団論」であった。
以上を経過として、またそのように仮設するなら、ここでの出発となっている「未知座小劇場が集団を標榜することを停め」た経緯は、言葉で言ってしまえば「既存の物語論への批評性」を勝ち取れなかった結果であるということになる。ここでいう物語論が射程する、物語の最高形態としての天皇制という概念に、集団として展開した運動が、論難され破綻したのであった。方法的に少しだけ踏み込んで発言すれば、すでに迷路の中に迷い込んでいた演劇的物語性に対して、集団でするもう一つの、新しい物語を対置できなかったのであった。
物語や集団、あるいは運動の概念規定を避けたまま、命題らしきものを放り投げているが、この拙文の位置付けが「序章」であるということでお許し願うしかないが、総じていえることは、集団内部に「もう一つの、新しい物語」ではなく、物語そのものが再生産されることになったのであった。それはテントそのものが〈物語〉となってしまったのだといえよう。きっとこのとき「行為することのまじめにいい加減であることの価値、それでもなお、自身が引き受けざるを得ない背反性には居直るのではなくまともに向き合おうとする倫理性、それを基準にすることによって初めて対話や、他者への意思が成立するとする決意性、これらを象徴として内含する集団論」が物語と化していたのである。物語と化すとは、それを支える集団論という運動が、やはりついに憤怒や義憤に支えられた想念、多くの倫理性によって支えられていたであろうものから、ついに決別できなかったということであろう。これらの論証は後論に譲るが、つまりそれらの根拠はついに、近代主義的な倫理性であったということになるでであろう。だがしかし、わたしはどうしても強調しなければならないが、仮想した「無名の死」は、なにがどう推移しようと、厳然たる事実としてありつづけるのであった。

このようにして、解体の対象として射程した概念によって、自身が解体する。ここにこそ、われわれがたどり着いた「未知座小劇場の集団性を解体する」という作業の本質はあったのである。
論証を待つまでも無く、未知座小劇場もまた時代の思想的限界に無縁でなかったのであった。そのように言い切ってしまえるなら、言い切ってしまいたい。一気に状況の方に掻っ攫えるなら、それに越した事はないのであるが……
このようにして十年の経過は始まったのであった。
この間の仮説は、物語とは情報のことである、というテーゼに推移した。この転位は、ロラン・バルトが物語のあれこれに言及する一つの手立てとしての、テクスト論に通じるであろうか。それは残念ながら、観ることを研鑽せぬ、ものいう観客に過ぎないのではないか、と悪意をもって捻じ曲げたいのであるが、そうも行くまい。だが、やはり、ことは解析することではなく行為することにある。物語はデータとして情報の傘下に下ったのであるから、繰り返すが、解析によって情報は物理的力を持ちうるであろうが、ことはその解析ではなく行為である。
この自問は、情報としての物語は、それは行為することのリアリティーはいかにして獲得されるか、へと作業仮説を導く。
ここは序説である。先走るのは止めよう。
右記の「行為することのリアリティー」とは演技の方法のことであった。それを取り巻く状況をここで「情報としての物語」と仮設したところで、なにも語ってはいないのであった。つまり、情報について何事も語っていないし、位置付けてもいない。そこで強引に言いまわしてみれば、ここでは情報は、データとして流通するのであるから、まずは個別主体の言葉パロール(parole)としてあるしかない。このようであれば、物語は情報を形作るデータの位置を逸脱できないのであるから、物語はついに倫理や、道徳や、伝説等として結実しないのである。これをまず「情報としての物語」と称呼したところで、残るのは匠気でしかない。できるなら「情報としての物語」などと記述せず、愚直にかつ直截にRDBMS(【リレーショナルデータベース管理システム】・Relational DataBase Management System )としたいのは山々であるが、すると物語→情報→RDBMSの連綿が素っ飛び「情報としての物語」という物言いが仮設されないのである。
この十年の経過の模索として、未知座小劇場はその一つとして、情報の極北という現在を求め一般第二種電気通信事業者となりレンタルサーバサービスを結果した。笑い話ではなく、情報の最先端はネットワークシステムのサーバ・クライアント型サービスのなかにあり、揚言すれば「すべてはデータベース化できる」というドクサまで辿り着いたのであった。この「すべてはデータベース化できる」を換言すれば、私の性欲さえヴァーチャルの中で提供し、実体化することで解消できるということである、というシステムを意味する。だから、いま物語りは情報として切り刻まれ、データの海の中で瀕死といおうか、それは溺死寸前であり、死滅を前にしているということになるだろうか。
右記のことを踏まえ、現在新聞紙上を賑わす、法的に起訴されているWinny(ウィニー)をみてみるなら、このファイル共有ソフトがサーバ・クライアント型サービスシステムであったら現状の検察側からの求刑はなかったであろう。現状は、このシステムがP2P(Peer to Peer)技術という中央サーバを媒介しない無政府的な連関システムにより展開されている結果である。情報の権力性からは著作権云々は瑣末なことに過ぎない。幻想であるが、情報管理がついに可能であるというイデオロギーに根ざした茶番であるのだ。また、ここで展開されている法理念を、素人として展開してみれば、舞台で殺人の場面があったので、現実に殺人事件が起きたことの舞台の犯罪性を問っているように装うこと、それは、ピストルによる殺人事件の因果で、ピストル発明者の犯罪性を問うことに似る。こんな論理は破綻していることは言うまでもない。そこでの尚且つの振る舞いは、いいようにナリフリかまった、情報の権力化という囲い込みであり、本質は権力闘争である。であるが、すでに情報が権力に囲い込まれるところに立ち止まってはいないのも確かである。情報は情報としてあるのではなく、データとしてあるのであった。すでに情報はア・プリオリにあることはない。ここまで綴ると、Winny(ウィニー)作成のプログラマーに触れるのがエチケットであるだろうが、これは特にない。ただ、餅屋は餅屋としてキッチリ落とし前をつけるしかないのではと思う。それはできるのだ、という立場にわたしは今いる。
十年の模索の経過は、一つとしてこのように情報の現在の明確化を迫った。同時に「もう一つの政治性」によらない表現論を要求した。以降の各章の多くを割いて、この内容を開陳することになるだろう。末尾にこれらの方法の種明かしをここでしておいて、この「未知座小劇場からの報告・2006」を閉じることにしたい。
未知座小劇場は、言語学を援用し、その表現論を仮設することから出発した。それは十年前の情報論とともにあった、もう一つの大きな支柱であった。これはきっと奇異に聞えるであろう。だが、ここでいいたいのは、情報と言語学の絡みのことである。したがって当然、未知座小劇場の表現論は、記号学への接近という事態に、導びかれた。これらの詳細は本論に譲り、ここでは粗筋めいて概括すれば、それは前述の「未知座小劇場が集団を標榜することを停め」をまったく発想を異にした地平で位置付けるという作業を意味した。換言すれば、未知座小劇場の情報論は言語学と手を結ぶことによって、新たなるもう一つの物語などと表象することを止めたのだといえる。レトリックとして「新たなるもう一つの物語」といったところで、それはもう〈物語〉でないのは明白である。それは、未知座小劇場そのものとしての〈力場〉となった。
思索の種明かしを具体的に綴れば、例えば「言葉ランガージュは常に言語ラングに助けられて現れ出る、と言えるでしょう。言葉ランガージュは言語ラングがなくては存在できないのです。言葉ランガージュの方は完全に 個 アンディヴィデュから逃れており」(『一般言語学第三回講義―コンスタンタンによる講義記録』相原奈津江・訳)という行がある。強いてこの行ではないとだめだということではない。この部位を「演劇ランガージュは常に舞台ラングに助けられて現れ出る、と言えるでしょう。演劇ランガージュは舞台ラングがなくては存在できないのです。演劇ランガージュの方は完全に 俳優 アンディヴィデュから逃れており」とすることで出発したのであった。
これらを集団論に暫定してみよう。「ラングという共同幻想が、いかに私たちを規制しているか、そしていかに惰性化が強いものであるか、という記号の世界の恐ろしさにほかなりません。その本質は人為的関係に過ぎないのに、あたかも自然物のように存在していて変革不可能な物神性を呈している」(『ソシュールを読む』丸山圭三郎)ということになれば、ここで「ラング」を「集団」として読みかえてみれば、パロールが演技や俳優となり、あるいは集団をシニフィアンとすれば「演技や俳優」はシニフィエとなる。すると演劇というランガージュは、虚構を出汁にした可能性を行為するという営為にはなりはしないか。
ここまで定式化して、誤解を恐れずもないが、さらに誤解を恐れて異なる定式化を試みれば、ランガージュ=表現営為、ラング=演劇、パロール=舞台、演技=シーニュ、俳優=シニファイン、観客=シニフィエとできたのであった。これらの弁証法の恣意的な全体が、未知座小劇場という変数に持たせた定数であった。この物言いが何かを指し示すことはない。一つの仮説に過ぎないが、より演劇という関数から遠ざかる術であった。それはまた、可能性を行為することのリアリティを獲得する方法を模索する道程であった。もちろんすべてをまとめて投棄せざるをえない、などという試行錯誤は度々であったが、演劇を一切演劇から語らないことでの思惟こそ、演劇的課題を凌駕しうるという仮設であった。それはまた、わたしたちが現代においてかかえる思想的課題に向き合う術ともなったのであった。いうまでもなくこれらは『力場の論理』の命題であった。ここが序章ということで、このような更なる物言いが許されるとするなら、未知座小劇場のこれらの命題への論証接近は、それは「演劇を演劇的に死滅させる」にはの命題を射程することになるだろう。ついで、こうなると定式化はフッサールを突きぬけ、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』にであう。とはいううものの、そこは『力場の論理』の遠い向こうである。いかんともしがたく、自身の無能を思い知らされるだけで、なんらの予断を許されてはいない。しかし、なおこの状況、この地平で未知座小劇場が断言しうるのは、演劇をしてもう演劇に返ることはないであろう、ということであった。
こうして、すでにこのとき前述した「未知座小劇場の集団性を解体することが、同時に未知座小劇場そのものの論理的解消を論証」し、立証したとすることは、遠い昔であるということができるのであった。

最後に予告めくが、この「未知座小劇場からの報告・2006」は、大阪演劇情報センター出版から発刊予定の『力場の論理』の「序章」として起稿した。『力場の論理』は、この十年来の拙文、書き下ろし文や寄稿文によって編まれる予定である。それは予断していただけると思うが、「全体を構想し、それをそのように提出したいのだ」とする想念を、正当に迫って固め取るというのではなく、軟弱にも大風呂敷を広げ掬い上げようというものである。そのようにして説明責任として位置付けた「未知座小劇場からの報告」を完結しようというのであった。

ついにここまで来てわたしは、わたしの脅迫観念に少しばかりの距離を置くことができるようになったかもしれない。が、あらたな悔恨から逃れることはできないであろう。それは「仮想した〈無名の死〉は、なにがどう推移しようと、厳然たる事実としてありつづけ」るだけだからではない。この『力場の論理』を、わたしがわたしの無力を廃し、せめて二年前に上梓していれば、この序章だけでもいいから提示できていれば、もう一つのあらたな〈無名の死〉に向き合うことはなかったのではないか。そのような、何かを思い留まらせる事のできる力がこの拙文にあるなどというのではない。無力でもいいから、彼に差し出すことさえ……。今はもう差し出すことさえできないのであるが、差し出すことさえできていたならば、そうしてさえも、何もできなかったかもしれないのであるが、語りかける回路は、無駄話でもいいのだ、それは成立していたかもしれないのであった、と今も夢想する。
わたしは、前回の公演『大阪物語・鹿狩かがり道三みちぞう 追悼公演』の台本あとがきで「彼とともに幻視していたであろう演劇的課題に対し、幾ばくかの、今はまだ定かではない仮説を、提示できたのではないかとする」と銘記したのであった。きっとこれは後先が逆であるのだ。この『力場の論理』こそ「未知座小劇場が集団を標榜することを停め」の経緯を言語化したものとして、まず提出されなければならなかったのだ。
こうしてついに、苦渋の悔恨となった。
やはりもう、なんといおうと……
  「死んだものはもう帰ってこない。
   生きているものは生きていることしか語らない。」
のであろうか。(06.06.21 記)


演技について・2006 『言語としての演技』(2006.10.16)


      【 編集注記 】この文は『大阪物語 revision-2 』公演で配布されたパンフレットに掲載された。

 
演技について・2006 『言語としての演技』

これは、きわめて演劇的な実話であることをお断りしておきたい。

話はこうだ。だがまず……
お断りしておくが、わたしは演技について何ほどかを模索したいので、言葉について想いを巡らすのではない。言葉(ランガージュ)は身体であり、思考であり、論理であり、関係であり、社会性であり、文化であると規定せざるを得ないことによってわたしの前に立ちはだかっているだけだ。それは演技について想いを巡らすことと同位ではある。だが、演技は方法であることによって表現であるが、言葉は、少々おかしな言い方だが、獲得されたものであることによって表現ではない。
では記号は?
記号云々はさておき、ここで言う記号は言語記号のことではない。単なる交通標識のようなものを想定しているに過ぎない。 さて、今回の「大阪物語 revision-2」には多くの記号やら言語が内含されてある。古英語やらハングルであったりする。そして手話がある。
さて手話は言語か?
手話のできないわたしが、なにほどか真っ当な話ができるわけではないが、そんな門外漢のわたしが、ものの本による「手話で寝言をいい、手話でひとり言をいい」というような内容に出会うと、青天の霹靂であるばかりでなく、精薄な至らなさを思い知らされて落ち込むことになる。
それはボディーランゲージやパントマイム、ジェスチャーに寄り添いながら手話を位置付けていたことになるのだ。ボディーランゲージやパントマイム、ジェスチャーとは、という寄り道をするつもりはないが、概括して想像力の問題として道筋をつけていたことになる。
「手話で寝言をいい、手話でひとり言をいい」とは、手話が言語の証左であるということだ。だから「手話で考える」という自然はわたしが論証するまでもない。
ということで本題である。
演劇的な実験を行ってみた。
わたしの拙い舞台出演経験からいえば、本番が近づくと決まって、出番前なのに台詞が入っておらず、消え入りたいという状況に叩き落され、右往左往する、という夢を見る。であるなら、本番をおえた俳優はもっと緊迫感のある右往左往する夢を見る、に違いない。舞台表現に携わるものにとって「うまくいった」などという概念はありえないからである。
初日の本番をおえた俳優に、打ち上げの宴会でしこたまおいしい酒を飲ませ、家に帰さず、テントの舞台に布団をしいて朝まで寝せてみた。
こちらは、客席に毛布一枚を持ち出し、一晩寝るのである。なぜ毛布一枚かといえば、客席にいるとは、精神的にも肉体的にも敷布団を敷いてあるという状況ではないからである。いい忘れたが、舞台に寝る俳優の敷布はムシロである。針の筵という語源はここから来ていることにご注意願いたい。
草木も眠る丑三つ時、うめき声が聞える。さもありなんである。気にすることはない。
ひと時すぎたであろうか?なにやら分けの判らぬ発声がはじまった。わたしはすぐさま、スポットライトを一つ点けた。スポットエリアに導かれるように俳優は入る、ようにわたしには観えた。見事なハングル(韓国語)である。韓国語がわからないわたしにもそれはわかる。だが、これは台詞で用意された韓国語ではない。覚えたハングルを総動員して自身の言語を構築しているのであった。
やがて手話での独白がはじまった。自問が始まっている。イメージを身体化しているのではない。形象化しているのだ。概念化だ。きっと俳優はいま新たなる手話言語を獲得しているはずである。
余談ではあるが「手話での独白」の概念規定は後日に譲ろう。
わたしはいまどんな瞬間に立ち会っているのであろうか?
真摯な、わたしの俳優の同意を得ぬままの演劇的実験は、破綻しているのだ。わたしは手話や韓国語や古英語で寝言をいうと想定していたのだ。そんなものは当然だと盲信していた、確証をえたかったのであった。  だが、ここでは俳優にとって演技は言語であった。こんな馬鹿なことはない。信じるわけにはいかない。演技とは方法であり戦術であり、論理である。しかし、信じない訳にはいかない。そこで現に、行為されているのだ。
わたしは、用意していた熱狂的な拍手のテープを静かに流した。スポットライトをフェイドアウトした。ここちよい客だしの音楽にサイモン&ガーファンクルの『サウンド オブ サイレンス』を流すのも忘れなかった。

やはり後日談を書いておこう。
朝起きた俳優は、しきりに喉の調子を気にしていた。なぜか判らないが声が嗄れたといっている。わたしはすぐさま「酒の飲みすぎだ。体調管理もできないのか!」と言い放つしかなかったのであった。 以来、この話を封印し今に至っている。考えても見ていただきたい。演技を言語とする、板の上にあがり役者たらんとする身体=俳優という人種がいることは、信じがたいことであるのだから。まともに話したとして、オヤジギャグとして素無視されること請け合いなのである。
こうしてわたしは俳優という人種に畏敬の念を抱くようになって久しい、ということも封印したことはいうまでもない。(2006.10.16)



=== 大日本演劇大系 上演記録 ===

大阪物語
■2005年11月25(金)・26(土)・12月9(金)・10(土)・16(金)・17(土)・23(金)・24(土)
【公演場所】未知座小劇場 大阪府八尾
■2005年12月3(土)・4(日)
【公演場所】シアターent. 鹿狩道三追悼新潟公演

大阪物語revision-2
■ 2006年10月15(日)・22(日)
【公演場所】black chamber (名村造船所跡地 大阪・北加賀屋)

独戯
■1988年3月【公演場所】大阪梅田オレンジルーム
■1990年9月【公演場所】八尾シルキーホール(大阪)
■2006年10月14(土)・21(土)
【公演場所】black chamber (名村造船所跡地 大阪・北加賀屋)

明月記
■1987年3月【公演場所】枚方市・新潟・大分・神戸
■1991年2月【公演場所】八尾シルキーホール(大阪)・スタジオ・アッカ(広島)
■1997年9月【公演場所】仙台市青少年センター(仙台)・コンカリーニョ(札幌)・ワッハ上方レッスンルーム(大阪)
■1999年2月【公演場所】桜江町コミュニティーセンター大ホール(島根県邑智郡)
■2006年10月13(金)・20(金)
【公演場所】black chamber (名村造船所跡地 大阪・北加賀屋)




 topへ  home:topへ  server library:topへ

Copyright (C) 2001-2025 大阪演劇情報センター all rights reserved.
編集:未知座小劇場   編集責任:闇 黒光
第2版:2001年06月01日 最終更新:2017年09月10日(Sun) 11:20:59 AM